2012年07月18日

588)悲観主義・楽観主義

5月25日のことです。
経団連自然保護基金の20周年記念式典に出席するため、
東京に行ったんですけど、
昼前に、中国からの留学生のインタビューをうけました。
北京大学の学生で、東大に留学中の女子学生。
日中国交正常化40周年を記念する、書籍のなかに収録されるそう。
その夕べの交流会の乾杯の発声を頼まれたので、
私はめずらしくスーツ姿。


冒頭で、「座右の銘はなんですか?」と、きかれました。
とたんに、フリーズ。
そんなもの、私にはありません。
正直にそういえばよかったのに、つい余計なことを答えたんですよ。
「(自分は)知性のゆえに悲観主義者だけれども、
意志の力で楽観主義者でもある。」
いいことばだと思いません?
アントニオ・グラムシ。
イタリア共産党の書記長だった人です。
その著作はちょこっとしか読んでないのに、
新聞に引用されていたことばに、しびれたのです。

第2次世界大戦のころ、彼はムッソリーニのファッショと、
生命をかけて、たたかいぬきました。
亡命中に下院議員に選出されると、その不逮捕特権を利用して、
国内に帰って、論陣を張りました。
ムッソリーニの勢いがとまらず、ファッショが極まり、彼は投獄されました。
引用したことばは、「獄中ノート」にあるそう。
11年の獄中生活のあと、釈放の直後に、病死したのです。
その時代背景のなかに、このことばをおくと、すごみがあります。
今日の人類と、環境問題を考えるとき、
いっそうぴったりするものがあるように、思うのです。

いまこの世の中で、世間の動きに流され、
楽観的でいられるのは、まさに無知のゆえでしょう。
なにかをすこしでも考えたら、楽観的でいられるはずがない。

私は、中国で講演をしたりするときに、かなり皮肉っぽく、
「中国では、杞の国の子孫は死に絶えて、
楽観的DNAだけが選抜されて残っている」などと、話していました。
杞の国の人とは、天が落ちてこないかと心配して、
「杞憂」のことばを残した人たちです。
いまの中国の人たち、個別に話をすると、環境問題、格差問題、
近い将来の少子高齢化問題など、いろいろ問題を感じているんですけど、
全体の動きとしてみたら、当面の右肩あがりのなかで、まさに楽観的。

一方、私たちも、世をなげいて、悲観に沈んでいればいいかといえば、
そうではないでしょう。
少しでも前向きに、自分にできることをしなくてはならない。
そうでなかったら、生きている意味はないと思うのです。

そうは思っても、グラムシのことばと、その生きざまは、
私には、重すぎるのですね。
とても、背負えそうにない。
で、後半を、ちょっと、もじらせてもらったのです。
スピリッツの力で楽観主義者でもある、と。
ときに、気持ちを奮い起こすことがあります。
ときには、ウイスキーであったり、白酒であったりします。
そのあたりが、私には等身大。

でも、留学生の彼女は、私の意図を読みちがえて、
おおまじめに、知性の悲観主義、意志の楽観主義などと、
まとめてしまいました。
これは困った!
私とはまったく異なる人物像が、つくられてしまいます。
posted by koko_tayori at 17:31| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
グラムシ! なつかしい名前です。
「知性のゆえに悲観主義者だけれども、意志の力で楽観主義者でもある」はいいですねえ。頭をあげて前へ向かおうといわれているよう。スピリッツは私の場合はよけい悲観主義になってしまったりしますが。
この言葉、いただきです。使わせてもらいます。
城野
Posted by 城野 at 2012年07月21日 07:14
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